• 2023年5月30日

精神医学とスピリット

 サッカーワールドカップ、野球WBCやオリンピックなどの大きなスポーツイベントで、選手が見せてくれるチーム・スピリットに感動する人は多いと思います。

 さて、スピリットという言葉は「肉体や物質を超えた心の働き、霊魂、霊性」(日本国語大辞典より一部改変)という意味を持ちます。

 これは身体とは異なる次元にあるもの、すなわち精神と理解されています。精神と身体は独立した存在である(『心身二元論』)という、古代ギリシアからデカルトにまで連なる西洋の伝統的な考えでもあります。

 身体については古代ギリシア時代から、医神アスクレピオスとその末裔ヒポクラテスが、すでに外科的な治療を手掛けていたようです。(余談ですが、僕が医学生のとき解剖実習の前にヒポクラテスの誓いを読まされました。)

 しかし、精神の病気については「悪霊」と捉えられる程度で、身体にするような医学的アプローチはなされていませんでした。

 ただし、その中でイエス・キリストが罪として扱われていた精神の病を治癒していた記述が新約聖書には多数あり、2000年以上前から身体の治療と精神の治療は、アプローチの仕方が異なっていたようです(山形孝夫、『治癒神イエスの誕生』、ちくま学芸文庫)。

 つまり、身体の病気に対しては医学が、そして精神の病気に対しては宗教がそれぞれ対応する、という棲み分けがなされていたのです。

 実際、ベルギーのヘールという街にある聖ディンプナ教会の隣には、精神病患者を住まわせる施設がありました(橋本明、『Geelの精神医療史』)。聖ディンプナは、精神障害者やてんかん患者の守護者として知られています。

 ヨーロッパでは、13世紀頃から各地に教会や修道院に隣接して、精神病患者を住まわせる施設ができるようになりました。今でもロンドンにある王立ベスレム(精神科)病院も、この時代に修道院から病院として発展しました。

 ただ、このころからキリスト教世界においても、聖書を分析的に研究する「神学」と、信仰としての体験を重視する「霊性」とがだんだん解離するようになりました。中世の終わりとともに分析的な神学研究が発展し、これが近世以降の哲学や科学技術に変化していきました(ホアン・カトレット、『キリスト教の霊性の歴史』)。一方、こころの体験を扱う霊性の分野は、ローマ・カトリック教会の衰退とともに第一線から退く形となりました。

 以降、宗教改革によるプロテスタント諸派の出現とそれに伴う北方(ゲルマン系、アングロサクソン系)ヨーロッパの経済成長が目覚ましくなり、科学技術が飛躍的に発展して今に至ることは、みなさんご承知の通りです。

 ローマ・カトリック教会の衰退による霊性の分野の低迷と、プロテスタントの興隆による科学研究や経済活動の発展は、ある視点では人類に大きな恩恵をもたらしましたが、別の視点からすると精神病を持つ患者にとって不遇の時代だったかもしれません。多くの患者は鎖に繋がれ、先ほど触れたロンドンの王立ベスレム病院では、患者を見世物として貴族がツアーするイベントまで行われました。精神病患者が鎖から放たれるのは、フランス革命期にフィリップ・ピネルが精神科病棟に人権の概念を持ち込んだ1793年8月25日まで待たなくてはなりませんでした(Wikipediaより)。

 ピネルの登場以降も精神の病気を持つ患者への処遇には紆余曲折があったのですが、大きな変化が訪れたのは1950年代にクロルプロマジンという物質が統合失調症に効くことが分かったときです。以来、うつ病、不安障害、ADHDなどに対する脳内モデルが作られ、多くの薬剤が製造・処方されるようになり、今日に至ります。

 しかし、私たちはこころの薬を飲むことで真に幸せになれたでしょうか?確かに辛い症状をある程度抑えることができ、社会復帰できるようになったことは大きな福音です。それでも、本当に生きていることを日々感謝し、喜べるようになったでしょうか?実はこれは何もメンタルヘルスに限ったことではなく、社会で生きる私たち全てに共通する問題です。

 先ほど述べたように、人類の文明は中世以降、分析・解析・量産といった科学的な手法で飛躍的に発展してきました。そして、スピリット(霊性)は時代遅れ、非科学的で避けるべきものとされてきたのです。

 しかし、現代社会に生きづらさを感じる人がいるのも事実です。スピリットの文化が衰退してしまった今、歴史を踏まえない怪しいスピリチュアル商法や集団にはまってしまい、ますます悩みが大きくなる人が多いことも問題になっています。

 以上、長くなりましたが、こころ(スピリット)の問題を扱う精神医学は人と社会に関わる広大な領域に熟知し、対応できる必要があります。精神医学が個人・社会・世界にどう貢献できるのか、ご一緒に考えましょう。

こころテラス・公園前クリニック 03-5307-4651 ホームページ