中学生・高校生のメンタルヘルス(思春期メンタルヘルス)
ADHD(注意欠如多動症)やASD(自閉スペクトラム症)という疾患名が一般的になってくるにつれて、中学・高校生の方のメンタルクリニック受診が増えてきました。一昔前までは思春期心性といって、親から自立する準備段階の不安定な時期として心理学的(精神分析的には力動的: psychodynamicsとも呼ばれます)に解釈されていましたが、最近ではDSM-5というマニュアルを用いた診断や、ガイドラインに沿ってお薬を用いた治療がずいぶん普及したように思います。
とはいえ、思春期の不安定さや難しさはいつの時代、そしてどこの文化でも変わらない問題です。昔は核家族化の問題がありましたが、今は結婚や夫婦関係の多様化による親子関係の変化も思春期の子どもたちに影響を与えています。また、両親共働きが一般的になり親子でいる時間が減ったことや、少子化により子どもへの教育熱がますます加速していることも影響しています。個人的な感覚を述べるならば、今の子どもたちは早く大人になることを期待されすぎていると思います。
中学・高校生の症状はさまざまで、やる気が出ない、友達に会いたくない、勉強に集中できない、昼間でも眠い、自分を傷つけたくなってしまうなど、多種多様です。大人の診察と同様に、その人の抱える悩みの本質は何か、そしてその悩みがどのように形作られてきたのか、を丁寧に聞く必要があります。慌てて診断名に飛びついて、拙速な治療を避けないといけません。
ところで、「子ども」の概念は歴史的に見ると17世紀ごろと、近代になってから生まれた比較的新しいものなのです。それまでは生まれてから7、8歳になると、徒弟制度のもとで大人と同様に働かされていたのです(フィリップ・アリエス、『〈子ども〉の誕生』、杉山光信・恵美子訳、みすず書房)。日本でも丁稚奉公などの制度がありましたから、洋の東西を問わず昔の子どもの扱いは似たものだったのでしょう。
近代になってから学校制度ができ、教育がなされるようになると同時に子どもたちは、学校という組織のもとで管理されるようになりました。子どもには「純粋無垢」(前著より引用)であることを求められる一方、学校という組織に馴染めるか、組織のボス(教師)に認められるか、他の子どもと学習面で遅れがないか、など常に評価の対象にさらされるようになりました。丁稚奉公時代の子どもも悲惨でしたが、学校社会で比較競争される子どもたちも、また悲惨なのかもしれません。
当然、組織の中からはみ出してしまう子どもたちが出てきます。特にユダヤ系アメリカ人であるデイヴィッド・ウェクスラーが知能指数を定量的に評価する方法が20世紀半ばに導入されてから、子どもたちは数値で評価され、外れ値を出す子どもには何らかの疾患名(ADHD, ASD, あるいは知的障害など)が付けられて治療の対象になったのでした。
このように書くと児童精神医学や心理学を批判しているようにも聞こえますが、そのつもりはありません。むしろ、現に学校や家庭に馴染めない中学・高校生がいるのは事実ですし、我々は何らかの手助けをしていかなくてはいけません。
実際、子どもの柔軟性や適応力の高さは大人とは異なりますし、仮にADHDやASDという病名を付けられたとしても、その子どもにあった環境や教育を与えることで自分らしさを見出す子どもの多いことも事実です。中学・高校生のメンタルヘルスを拝見することは、子育てと同様に答えのない問題に分け入って、自分なりの回答を見つける作業なのだと思います。